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大日本帝国3


149 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:02/07/19 20:58 ID:???
開戦前、日本の造船計画者たちは年を追うごとに商船建造量を
減らすという計画をたてていた。
これはアメリカのシーレーン攻撃による商船損耗を甘く見て
いたからなのだが、その甘く見た根拠はというと
 
「アメリカ人は潜水艦が大嫌いだからあまり使ったりしないであろう」

という思い込みによるものであった。
157 名前:名無し三等兵[] 投稿日:02/07/21 14:48 ID:dkHwgeTD
 明治37年の12月。
  児玉満州軍参謀総長は、在大連の遼東守備軍司令官の某大将を訪問した。

  某司令官は、部屋の隅にある箱の中から煙草を取りだして児玉参謀総長に
勧めたが、児玉参謀総長はそれをのまず、歓談を続けた。

  帰り道、児玉参謀総長は従者田中少佐に言った。
「田中、○(司令官名)という奴は何も分からぬが、あの箱は西洋夫人
の便器の台だぞ!西洋人が来た時あんなことを○がして見せると困る、
貴様○に言っておけ」
260 名前:名無し三等兵[0] 投稿日:02/08/21 19:27 ID:???
昔じっちゃんに聞いた話
戦場では用を足しても紙がない
全然拭かないのも不潔なので
ロープを張って排便後その上を
またいで歩いてこそぎ落とす
こんな生活いやぽー
261 名前:名無し三等兵[] 投稿日:02/08/21 20:42 ID:JwYJYMjZ
>>260
ん?
戦前の日本の農村ではそれが当たり前だったはずだが。
他にも竹べらなんかも日本の伝統的な用便関係品。
262 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:02/08/21 21:25 ID:???
>>260
紙で拭く文化がある国は先進国以外ならそうないよ。
フォークランド紛争ではイギリス兵の下痢がひどく
ズボンの尻の部分を切って垂れ流しながら行軍したという。
263 名前:名無し三等兵[] 投稿日:02/08/22 19:49 ID:zCAxsa/m
>>262
日本兵なら普通かも。
尻の縫い目をはずしておいて、
しゃがんだらすぐに出せるようにしてたらしい。
264 名前:名無し三等兵[] 投稿日:02/08/25 07:42 ID:OA5goh9w
シベリア抑留体験者の手記によると、
まるっきり拭かないのがソ連兵だったらしい。
266 名前:名無し三等兵[] 投稿日:02/08/25 09:13 ID:oUwPDrr3
>>262
ビルマのウィンゲート将軍指揮下の特殊部隊でも、
やはりズボンの尻の部分を切ってる兵士の絵を見た
覚えがあります。
268 名前:名無し三等兵[ ] 投稿日:02/08/25 09:27 ID:???
たしかモンゴルも馬上からけつをずらしてしてたよね
265 名前:ウインドトーカーズ上映記念[] 投稿日:02/08/25 08:41 ID:aVZGn2jJ
第2次大戦中、ベルリンの日本大使館が東京の外務省と連絡をとるときに、
暗号機が壊れていたため電話で連絡をとらなければいけない事態となった。

そこでベルリンの大使館には、たまたま鹿児島県出身の書記官がいたため
外務省の同じく鹿児島県出身の事務官との間で鹿児島弁で会話したという。

傍受した米軍もなかなか解読できなかったとか。
108 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 20:55 ID:???
日本占領軍として送り込まれた米軍の第1陣将兵には、
日本を”未開の地”とみなして、瘴癘(しょうれい)地手当、
熱帯の発展途上国に行くときと同じ、一種の危険手当が支給されていた。
121 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 21:44 ID:???
>>108
東京駐在の外資系企業の本社社員(ようするに日本駐在の本社社員。欧米人)
には「熱帯手当」がつく。確かに東京はクソ暑いけどな・・・
441 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/07/08 13:20 ID:???
戦時中にアメリカがブルドーザーで飛行場をすぐ整地していた。
日本は人力だった。

んで、緒戦にどこかの南方でブルドーザーを鹵獲して、
ある大学の研究室に送られてきた。
うーむ、これはすごいものだなーと感心していたら、
実は戦前から京都大学にブルドーザーは輸入されていたが、
予算の関係で放置されていた。
と言うのも、戦前の土木工事は、世界恐慌の余波を受けた日本での
失業対策と意味合いが大きかったために、
ブルドーザーなどと言う労働者の仕事を奪うものを
政府が推進して開発は出来なかったとの事。

うーむ、確かに、車輪の下でブルドーザーに仕事を奪われた農民が
出てくるので、これもまたうなずけるかなと。
442 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/07/08 20:01 ID:???
>>441
ありゃ?イタリヤやドイツでは分業化が進むから農民が地主にブルドーザーや
トラクターの導入を求めたのだそうで、ドイツ軍の戦車の多くは元々は農耕用
に開発された物を転用したそうだ、発想の違いだな。
444 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/07/09 14:41 ID:???
>>441
ウェーキ島だかグアム島の話ですね。

>>442
ドイツではヒトラー政権下で軍需産業や土木産業に人手を取られて、
農業人口の人手不足が始まり、安価な化学肥料の開発による収穫
増と治水、開墾による耕地面積の拡大にも後押しされて農業の大規
模化、機械化がある程度まで進んでいった。

日本の場合は細々とした水田主体だからだめぽ・・・
445 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/07/09 20:43 ID:???
ドイツの場合はWW1の影響でその当時の若年層、つまりヒトラー政権時の熟練労働者層が
薄いという問題もあったはず。
軍需産業も土木産業も、投下された資本やその成果に比べて就業人口は多くない。
再軍備で軍が増員された影響もあったんでは?
603 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/07/16 23:01 ID:PERmER6H
旧日本軍で運転免許を取るには、運転操典を丸暗記しないと
車にも触らせてもらえなかった。
そのため陸軍でトラックを運転できる兵は非常に少なかった。
199 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/08/19 21:10 ID:???
大東亜戦争末期、
台湾と日本の海上交通路が米潜水艦により危機的状況になると、
日本内地では払底していた砂糖が、
台湾では船積みできないために余ってしまい、
内地に帰投する艦艇乗員に、タダどころか持ち帰るよう命令が下ったことがある。

無事に持ち帰れれば、の、話ではあったが・・・。
203 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/08/21 01:23 ID:???
東京のビアホールでビールの泡が多すぎる、と客が文句を言い出し、
「ビールの泡はビールか否か」
という馬鹿馬鹿しい裁判があった。
  結局「泡にはビール以上の濃度のアルコールがある」と
ある博士が熱弁をふるったこともあって「泡はビール」と結審。

問題は、この裁判の判決が出たのが1944年の10月ということである。

・・・もう、戦況絶望的で特攻機出撃しとるがな。
北九州にはB-29が何度も空襲してるし。
518 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/09/20 00:09 ID:???
太平洋戦争中の話
空襲が今日くるか明日くるか不安でたまらず、
「どうせ空襲されたら燃えてしまうんだから」と
自分で家に火を付け全焼させ、「これでやっと安心した」という
オバサンがいた。
519 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/09/20 00:14 ID:???
1942年、我が国には一般火災保険の目的である建物とその付属物と内外に
設置された工作物(起重機、ガスタンク、溶鉱炉など)、一定場所にある動産、
運送品、車輌、航空機、船舶を保険する戦争保険臨時措置法というのが施行
された。
これは、担保すべき保険事故は戦闘行為に基づく火災や、損壊に限定されたが、
その契約は被保険者が保険金を添えて申し込んだ時に成立するものであった。

保険料、運送品は1000円に付1円、倉庫保管の不特定物は1ヶ月で1000円につき
0.8円、それ以外は6ヶ月で4円。
保険料受け取りは、一部(3000〜5000円)が現金、それ以上は特殊預金か特殊
金銭信託となった。

更に、1944年には火災保険を掛けると漏れなく戦争保険が付いてくるようになった。
ちなみに、これには地震保険も付帯してくるものである。
また、これとは別に戦争死亡傷害保険と言うのもあったりする。

戦争保険の保険料収入は、6.4億万円、支払額は当然の事ながら、462.8億円の巨額に
上り、地震保険は収入1.1億円、支払は2.4億円、戦争死亡傷害保険も、収入1.6億円、
支払7.7億に達した。
524 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/09/20 01:50 ID:???
大平洋戦争中の博多で実際にあった話

ある成金の豪邸が建物疎開で壊されることが決定した。
で、その成金はヤケになって斧で豪華な調度品や骨董品もすべて破壊した。
「裸一貫でやりなおす」と吹聴して回ったそうだが翌日が8/15で
男泣きに泣いたそうだ。
604 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/09/26 17:12 ID:???
明治時代には水兵も食事は自腹で、食事代が支給されていた。ただ、白米だけは
支給されていたようだ。でも、脚気の原因が白米とわかり、麦飯に。
また、食事代も仕送りして、ろくな食事をしていなかったので、食事も支給となった。
607 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/09/26 23:31 ID:???
なんで食費自分で払わないといけない制度になったの?
608 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/09/26 23:49 ID:???
一兵卒は徴兵だから、職業軍人ではない。
そして、日本の昔の軍隊のウリは、
「腹いっぱい白米が食べれる」事でした。
そのかわり、お給料が少ないと。

仕官はいわゆる公務員でお仕事だし、
イギリスから流れてきた伝統で、仕官と一兵卒より食事が良い。

が、この食事が良すぎる(高すぎる)ので、
下仕官の給料を圧迫したという感じですかね。
610 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/09/26 23:55 ID:???
絶対とは言い切れないが、帆船時代の名残で、当時は船の所有者(支配人)は
自費で船員を雇っていて、その時の契約に食事をつけるとなっていた為。
ただ、自衛隊は船の乗組員は士官でも、タダです。
611 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/09/27 00:25 ID:???
船員に対する食事の支給は船員法が根拠だな。
海上自衛隊も準用してるんじゃないかな?
612 名前:604[age] 投稿日:03/09/27 00:39 ID:???
脚気の原因がハッキリしていない時、海軍の軍医が食事のせいだと考え、白米を止めて
麦飯にしろと忠告したが、当時の水兵は、銀シャリなど食べた事が無く、それを食べるのを
楽しみに海軍に入り、厳しい仕打ちに耐えてきているので、麦飯にしたら反乱が起きると
の理由で却下された。
614 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/09/27 00:53 ID:???
大阪鎮台では明治18年の時点で麦飯の給与を開始していた。
麦飯給与の前々年度の脚気患者は兵1000人当たり428.21名、前年度で353.33人であったが
麦飯給与が始まってから一気に13.21名にまで減少した。



・・・・あの文学馬鹿が居なけりゃ。
634 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/09/28 00:39 ID:???
 1940年末、食堂車は贅沢だから止めろと政府、軍部から強硬に鉄道省の旅客課に
  圧力を掛けてきた。
  当時の旅客課長は列車内で食糧を得る術がないから、残置すべしと主張したが、
  強硬な主張によって、遂に廃止した。

  しかし、廃止した直後から、軍・財界・高級官吏の一群から復活要求が殺到した。
  今度は旅客課長、強硬にその要求を跳ね付けたが、復活の議が閣議に持ち出される
  様になり、結局復活したと言う。
634 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/09/28 00:39 ID:???
 東京ドームになる前の後楽園球場は戦時中、東部軍の対空陣地だった。
  スタンド二階には、機関砲の他、電探、観測器なども備えられた。
  その電探の感度を維持するため、震動による故障を避けるために都電は
速度を落として通過し、 ネットの網は電波を吸収するというので、大きな
布を貼られたりした。

  丸の内には本来、鉄筋などを用いた不燃性のビルの建設が望ましかったが、
戦時中の物不足で、 それが望めず、木造事務所を建設せざるを得なかった。
  最初の木造事務所に入居したのは、皮肉なことに鉄鋼連盟と日本製鐵だったりする。
9 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/11/02 22:47 ID:???
太平洋戦争末期、もう化粧品など作れなくなった時代、資生堂にいきなり政府から
大量の化粧品原料、そして容器に至るまで送られた。

そして、政府の命令によって、資生堂は大量の化粧品、香水、ローションを製造した。
当然、社内では様々な説が流れたが、一番有力だったのは、ソ連に講和を斡旋して
もらうため、ソ連高官婦人に贈呈するお土産品だというもの。

しかし、実際は、大陸でタングステン、銅などの戦略物資を買い付けるために、
小さくて軽く、そして高価である見返り物資を、と言うことで、高級香水など化粧品類を
その物資に充てたものであった。
47 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/11/04 23:39 ID:???
都市伝説で思い出した小ネタ。

「一銭五厘の葉書一枚で召集令状は郵送される」

召集令状というのは、実際は市町村の職員が、直接本人か、不在の場合は家族に
手渡して交付した。
そして、受け取った人は受領した日時を記入し、押印をしなければならなかった。
代理人もこれは同じである。
押印した部分は受領書として、召集令状から切り取り、紙片は市町村役場の兵事課
の帳簿に閉じられて保管された。

ちなみに、「巨人の星」の星一徹には昭和20年3月10日に再召集令状が届けられた。
本籍は、東京都墨田区で、彼はその時、陸軍歩兵上等兵であり、東京?第十二聯隊?
に入隊している。
48 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/11/04 23:59 ID:???
>>47
>ちなみに、「巨人の星」の星一徹には昭和20年3月10日に再召集令状が届けられた。
>本籍は、東京都墨田区で、彼はその時、陸軍歩兵上等兵であり、東京?第十二聯隊?に
>入隊している。

その時点で一徹が本籍地に住んでたとすれば、前の晩に東京大空襲に遭遇していたのだな。
しかも被害の大きい墨田区で・・・・
明子も飛雄馬もあるいは生まれてこなかったかもしれなかったのだな・・・
50 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/11/05 14:47 ID:JH0mpDDJ
昭和20数年、戦後まもない頃の事故

西日本のとある村に進駐軍が武装解除のため訪れた。
村のはずれに山があり、山の中腹に掘られたトンネルの中から
本土決戦に備えた大量の武器弾薬が備蓄されているのを発見した。

武器輸送をためらった司令官はトンネルに火をつけて破壊する事を命じた
その結果大量の弾薬が炸裂、山を吹き飛ばし村は壊滅した。
58 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/11/05 15:26 ID:???
>>50
英彦山が吹っ飛んだやつ?
佐木隆三が小説にしてたな。
65 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/11/05 17:06 ID:???
>50
敗戦直後の昭和20年11月12日午後5時15分、英彦山駅から500mの二又トンネル内で
火薬が爆発しました。
この火薬は、米軍の空襲を避けて陸軍がトンネル内に隠していたもので、敗戦になって火薬の処理にきた
米軍将校の軽率な行為で引火しました。
長さ100mのトンネルを埋め尽くした火薬の量は532トン。
死者147名、負傷者149名、倒壊家屋131戸、田畑の被害範囲は2キロに及び、爆発音は遠く福岡や
別府まで聞えたそうです。


532トンもの火薬の爆発となると、さすがに被害がすごい
66 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/11/05 17:28 ID:???
0.5キロトンなら、戦術核並やん
107 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/11/07 19:48 ID:???
漏れの住む田舎の町役場にはいまだに、
「旧日本軍の銃器を持っていたり、見つけたひとは警察に届けましょう」なる、
ポスターが貼ってある。
いくらなんでも・・・と、思っていたら、田舎とは恐ろしい。

ある旧家の土蔵を取り壊すことになり、中のものを片っ端から出していたら、
あとで調べたら幕末頃のスナイドル銃か何かだったらしいが、
サビの塊のような銃が出てきた。
「銃が出てきた!」と警察に通報したところ、パトカー4台が到着。
事情を話したら家人はおとがめなし、銃は警察が持ち帰ったらしいが、
そりゃ田舎のこと、一時はすごい騒ぎだった・・・。
185 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/11/11 01:42 ID:FzeLKlDz
香川県の観音寺市にある 寛永通宝のでっかい銭型の砂絵は大戦中 
米軍が日本軍の秘密の研究施設に見えたらしく偵察機がよく飛んでいたらしい
186 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/11/11 01:49 ID:???
>185
サイクロトロン・・・とか?
187 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/11/11 01:49 ID:???
・・・「施設」に見えるほど巨大なのですか?
いったい何の施設だと思ったのやら。
189 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/11/11 02:08 ID:???
>>186
米軍の情報分析担当官は、その四隅に刻まれていたであろう「寛」「永」「通」「宝」の
意味するモノについて、首を捻りまくっていたのでしょうかw
313 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/11/17 00:42 ID:???
昭和二十八年のこと、巣鴨刑務所から戦犯となった某兵士が脱獄、姿をくらました。
だが逃走罪の逮捕状は出ず、罪にもならなかった。

この某兵士はマニラのアメリカ軍事裁判所で終身刑の判決を受けていた。つまり
日本刑法による日本の受刑者ではないため、罪ではないのである。

と、こんなこと書いておいてなんだが、この話本当かなあ?
ちなみに「脱獄者たち」という本に載ってました。
366 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/11/18 02:14 ID:???
米軍包囲下のウォッゼ島では輸送が途絶え、その上爆撃で滅茶苦茶に
なっていたので極度の飢餓状態にあった

あろうことか食料分配をめぐって日本兵同士で銃撃戦をして、
戦死者を出す有様だったそうだ
367 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/11/18 02:18 ID:???
日清戦争の際、荷物の輸送が1日遅れた責任を感じて、
指揮官の将校が切腹する事件がおきた
886 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/12/18 21:45 ID:???
真珠湾攻撃成功で太平洋戦争が始まった時
NHK鹿児島支局はラジオニュースで景気の良いBGMと供に放送した。

そのBGMの曲名は「星条旗を永遠に」だった。


当然ながら、すんごい怒られた。

 

887 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/12/18 22:37 ID:???
糸居五郎は、戦争中「敵国アメリカではこんな軟弱な音楽を聴いている」
とジャズを放送していた。
(もちろん、本人が聴きたかったし放送したかったので。w)
46 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:04/01/08 22:49 ID:???
飛行の黎明期、そして宇宙旅行、人間様が乗る前には、まず最初に無人で、
次いで動物を乗せるケースが多い。

1924年12月16日、所は霞ヶ浦海軍航空隊。
墜落の際の傷害についての研究の為、猿を乗せた模型飛行機を飛行船から
投下すると言う実験を行なっている。
この模型飛行機は、人間と猿の体重比を基本として、猿の体重に合わせて
縮尺比を定めた、「十年式艦上戦闘機」の精密スケールモデルで、高度100m
より、飛行船から投下された。

この機体はノーズダイブからスピンに入り、6秒後に地上に墜落、左翼を大破した。
そんな状態では、猿は生き残って居らぬだろうと、残骸を見に行ったが、猿は鼻の
脇を打撲した以外は外傷も内傷も無かったという。
84 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/01/12 01:45 ID:???
>46

>猿は鼻の脇を打撲した以外は外傷も内傷も無かったという。

ん?手持ちの資料(写真記録航空事故、出版協同社)だと「猿は数日後に死亡
解剖の結果死因は内臓の損傷によるものと判り、航空生理の研究資料として
尊い経験を得ることができた。」となってるけど。
87 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:04/01/12 09:48 ID:???
>84
成る程、ご指摘多謝。
漏れのは秋本実著「飛行機銘々伝(第四巻:朋の巻)」に書かれていた
ものだったのですが、矢張り、後日談あったんでつね。
117 名前:名無し三等兵[] 投稿日:04/01/15 02:13 ID:JBH3BPi5
そろそろ卒業式などが話題になるころですが、大戦中の女学校の卒業式には
蛍の光は歌われなかったという。やはり元が英国の曲だから敵性音楽として
扱われたのだろうか。その代わりがベ−ト−ベンの第九だったようだ。
同盟国ドイツの曲は良かったのかな?
118 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/01/15 02:41 ID:???
>>117

蛍の光は、詩が変えられ韓国の愛国歌になった  ヘーヘー

仰げば尊しもスコットランド民謡 ヘーヘー

そのせいで戦時中は両方とも歌謡禁止だった所もあった ゲーヘン

蛍の光と仰げば尊しは兄弟歌で内容が対になっている ヘーヘー

蛍の光の1番
  蛍の光り窓の雪 ふみ読む月日重ねつつ
  いつしか年も杉の戸を 開けても今朝は別れゆく

仰げば尊しの3番
  朝ゆうなれにし学びの窓 蛍のともし火つむ白雪(しらゆき)
  忘るるまぞなきゆくとし月 今こそ別れめいざさらば
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