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帝国陸軍2
- 11 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/05/05 21:47 ID:???
- 予科練の七つボタンの制服は当初、短剣や軍刀を吊る予定だった
が、兵学校からの強硬な反対があり話はお流れ
予科練生には既に「兵学校と同じような制服になり、
- 短剣も吊れる」と伝達してあったため生徒たちの落胆はかなりひどかったとか
- 13 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/05/05 22:01 ID:???
- >>11
ドイツ軍の服が七つボタンだからって聞いたことあるぞ。
- 488 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:04/05/20 23:13 ID:???
- 1931年、後年のように軍の予算が潤沢でなかった頃のこと。
(その1)
陸軍全体で判任文官1名を削減することとなった。
しかし、どの部署からも断られ、陸軍省防衛課長に三拝九拝して、
- やっと宇品の陸軍運輸部にあった小蒸気船の機関長を嘱託にすることが出来た。
(その2)
全陸軍で軍馬10頭分の維持費が予算を超過することが判明した。
この削減のため、全陸軍を捜し回った挙げ句、陸軍戸山学校長や技術本部の
- 将官用乗馬が一年に一回も乗馬していないことを見つけて、漸く予算削減が
- 出来たと言う。
- 729 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:04/05/28 12:28 ID:???
- ガ島への食糧輸送で、万策尽きた陸軍が考えたのが、「鴨葱作戦」。
即ち、野菜を背に括り付けた牛を、駆逐艦で運んで目的地付近で海上に突き落とす。
海上に突き落とした牛は、陸を目指して泳ぎ、泳ぎ着いた所で、兵士に拾われ、ウマー、
となる予定だった。
- 833 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/06/01 21:22 ID:???
- 1942年7月、上海に近い近い地域。
ここにおいて日本陸軍第731部隊は中国軍に対し大規模な生物兵器攻撃を実施した。
コレラ、チフス、炭そ菌… これを飛行機からまくというものである。
99式双軽3機により実施された作戦は、1万人以上の被害者を出し1700人以上が死亡した。
本来ならば大成果である。
しかし、これによって殊勲を受けた者はいなかった。
……被害者の全てが日本兵だったからだ。
ソース元:講談社現代新書「731部隊」
- 958 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/07/09 01:02 ID:???
- 日本陸軍機の胴体に日の丸を描くようになったのも、味方機攻撃を防ぐため
一式戦隼が出た当時、海軍はおろか陸軍ですら見た事ある者は少なかったため
敵新型機と誤認され、しばしば97戦や96艦戦と本気の空中戦になることもあったとか
- 959 名前:名無し三等兵[] 投稿日:04/07/09 02:48 ID:AQoRlEJl
- 三式戦飛燕もP51にまちがえられ攻撃を受けることもあったそうな特に海軍から
逆に雷電はよくF6Fにまちがえられ陸軍から攻撃をうけた
- 960 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/07/09 05:12 ID:???
- 長崎の軍艦島が軍艦と間違われるくらいだからな。
- 655 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:04/08/01 02:12 ID:???
- 明治19年、歩兵第四聯隊が編纂した「兵卒口授問答録」には以下の問答がある。
問 窓より流動物を投落する等の事は為して可なるや
答 流動物其の他の物品を投落し、または物を乾かし、或は窓の縁にて物を切り、
又妄りに釘を打ち付くべからず。
問 大小便は何処に於いて為すも可なるや。
答 厠の外に於いて為すことを禁ぜらる。
ちなみに、こういった兵士向けの官給の教科書は明治20年代以降作られず、
以後、口述にて教育が行われるようになる。
いずれも信じられないが本当だ。
- 656 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/08/01 06:42 ID:???
- >>655
兵卒はトイレなんて特になかったであろう農民出身者が多かったでしょうからね。
- 657 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/08/01 08:58 ID:???
- いくら当時の日本の農村でも、厠ぐらいあるだろう。
- 804 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/08/22 00:20 ID:???
- 日の丸スパイ養成組織、中野学校
戦後、日本のスパイ組織として、中野学校が、世間に認知され始めたとき、
我は中野学校出身という人達が、戦後のスパイブームに乗って映画の
- アドバイザーやら、小説のアドバイザーやら、雑誌のインタビューやに出てきた。
が、その人達は中野学校出身の人が、知らない人達ばかりだった。
入学期が違うと、お互い知らない人間もいるかと思い、本人に第何期の入学か
- 聞いてみた
で、判ったのは、彼らは、みな、陸軍中野学校の隣にあった、憲兵隊の学校
- 出身者だった。
憲兵学校でも、防諜対策等で、諜報等のカリキュラムがあり、スパイの真似事を
- する訓練まであった。
で、陸軍中野学校の方は、世間の目を欺くために、陸軍通信研究所の看板を
- 掲げていて、陸軍内部でも、限られた人間しかその存在を知らず、当然隣の
- 憲兵学校の人達も、其処がスパイ養成施設とは知らなかった。
で、戦後、日の丸スパイ組織中野学校と成ったとき、なまじカリキュラムに、防諜
- などが入っていたため、憲兵学校出身者は自分たちがいた、憲兵学校こそ、
- その中野学校のことである。と、本気で思いこんでいた。
と言うのを、大分前、雑誌で読んだ
- 70 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/08/29 20:45 ID:???
- では本当に信じがたい話を一席。
爺さんの戦争体験スレにも書いたんだが、ウチの叔父は1944年仙台幼年学校入校。
当時の教育だから精神論一辺倒かと思いきや、
「どんなに苦しくとも玉砕はするべきではない、苦戦になって安易な道を選んで
玉砕することは指揮官として責任を放棄することである」
「敵機に対し小銃や機関銃で応戦してはならない。身を隠し損害を防ぐことが
最良の手段である」
「部下の功績を自分の物のように言ったり、自分の責任を部下に転嫁するような
者は品性下劣であって指揮官として全く資質にかける」
といった教育を受けたそうだ。
本当です。叔父の当時の日記から抜粋。
- 75 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:04/08/29 21:48 ID:???
- >70
1943年後半からやっと「対米戦」に関する講義内容が設定されたそうです。
その教育が行われる可能性もさもありなんでつ。
- 839 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/09/10 22:42:03 ID:???
- 陸軍士官学校入校後の最初の教育は朝の洗面の仕方、歯の磨き方、
うがいの仕方、水洗便所の使い方だった。
- 613 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/09/25 16:02:41 ID:???
- 歩兵支援として砲撃が要請されるのは当たり前だが、
日本側から1発撃つとアメリカから数百発撃ちかえされる為、
歩兵から砲撃するなと、頼む事が良くあったらしい。
- 23 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/10/22 03:06:50 ID:???
- 昭和17年度(17年4月〜18年3月)の海軍へのビール納入実績。
麦酒協会によれば大日本・キリン・サクラの3社合計で、
大瓶2000万本相当。総生産量の5%。
なんと同時期の陸軍への納入実績の2倍だったりする...
陸軍主力は外地(中国)に居たためだろうが、
それにしても良くも呑んだものだ。
- 37 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/10/22 20:41:54 ID:???
- >>23
中国・瀋陽の地ビール「雪花ビール」は、
もともと「アサヒビール奉天工場」を共産軍が接収したのが始まり。
現在も、当時のアサヒビールのフォーミュラが基本になっており、
「青島ビール」などより、漏れの味覚だが数段うまい。
- 43 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/10/22 23:12:42 ID:???
- 陸軍幼年学校では規則が非常に厳しいため、もちろん授業中の居眠りなどは言語道断
でも、んなこと言ったって授業聞いてりゃ眠くなるのが学生の常
そこで幼年学校の生徒たちは鍛錬の結果「姿勢は崩さず真正面を向いて、
目を見開いたまま眠る」という技を会得していた
- 44 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/10/22 23:35:03 ID:???
- 兵隊さんは歩きながら眠ることができるってのもあるよな。この板では今更だが・・・
- 97 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/10/23 19:28:34 ID:???
- 台湾にあった陸軍の嘉義空港の話。
1940年だか41年にあった大地震の後、空港に行ってみると
格納庫前の方に並べてあった飛行機が全部行方不明になっていた。
地震の揺れでどっかに転がって行ってしまったのだ。
皆で手分けして探すと敷地の端の方にあった。
重爆が手前にあってその間に戦闘機、というように重なっていたそうだ。
「サイドブレーキとか無かったの?」
「今の飛行機ならともかく当時の飛行機には無かった。」
「車輪止めは?」
「一応有ったけど発進の時に使うぐらいでそんなに数が無かった」
- 423 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/11/19 15:38:08 ID:???
- よもやま物語じゃないが、うちの祖父がもらった戦友会の刊行物「目で見る連隊」
に書いてあった小話をひとつ。
シナ事変中、中国軍の陣地へ突撃中に腹部に敵弾をうけ転倒したが、持っていた
擲弾筒の弾に当り、内部の炸薬を抉りながら1週し、入った穴から抜けていった事で
生き延びた人が居る。
信じられないが本当だ。
- 424 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/11/19 15:42:41 ID:???
- ヘルメット版もあったね。
- 627 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/11/24 13:13:27 ID:???
- インドネシアではオランダ軍相手に義勇軍となった旧日本陸軍人もいたようだが
一方で、インドネシアで英軍・蘭軍の捕虜収容所にいた日本軍を英軍は義勇兵という形でインドネシア独立運動を抑える側に使用した
もちろん、敗戦国の捕虜という立場上断りきれなかったなどといった事情があるのかもしれないが、もしかしたら旧日本陸軍軍人同士が戦火を交えた可能性も否定できない
- 829 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:04/11/27 01:42:49 ID:???
- 太平洋戦争に動員されるに当たって、久留米の第一戦車聯隊の秘匿名と戦車の識別記号を付けることになった。
聯隊はこれを聯隊歌の一節、「筑紫野原や宮の陣」から、第一中隊を「ち」隊、第二中隊を「く」隊、第三中隊を「し」隊、
第四中隊が「の」隊、整備中隊を「や」隊とした。
各々、これらは10号車なら戦車砲塔に「ち10」と書いた訳であるが…。
第三中隊の「し」隊は猛烈に反発。
曰く、「「し」は「死」に通じる。だから、死隊とか死体とか不吉極まる語呂で呼ばれては迷惑千万」
曰く、「「し」という文字面は不安定だ。これを戦車の記号にしたのでは様にならない」
ただ、これだけでは反対の根拠は薄いので、連隊本部に以下の陳情を行なった。
「ちくしのやは縁起が悪い。
「血苦死野や」と置換えると、「血を流し」「苦しみ」「死んだ後は」「野火で」「焼く」と
読むことになる。
特に、第三中隊は「死」の中隊と呼ばれやすいから変更してくれ」と。
結果は却下されたものの、「し」隊は「志」隊に改められ、「の」隊は「乃」隊に変更され
たと言う。
- 830 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:04/11/27 01:48:19 ID:???
- 合理性を追求する軍隊が名称にこだわるとは、めめしいでつね。
- 831 名前:ゆうか ◆9a1boPv5wk [] 投稿日:04/11/27 02:09:59 ID:E8+PM1p0
- >>830
軍隊てのはあらゆる職業通じても最も縁起をかつぐ職種の一つですよ。
命のやりとりする職業ですから、迷信であってもわずかでも生の方向に可能性を増したい心情からですかね。
- 833 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/11/27 03:09:54 ID:???
- 明治38年3月22日、日本陸軍は、30年式歩兵銃1万6千、30年式騎銃4千、
30年式銃実砲200万発、同擬製実砲10万発を清国に輸出している。
日露戦争の真最中に、なんでこんな大量の兵器を輸出出来たのか?
うーん、なんでだろ…
- 17 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:04/11/30 00:10:08 ID:???
- 1942年4月、ビルマへの第二期侵攻作戦の為、戦車部隊が投入された。
彼の地で対決するのは、当時アジアに於ける連合軍最強の戦車である、M3軽戦車。
と言う訳で我らがチハタンがM3軽戦車の装甲をぶち抜けるか、研究することになった。
標的は遺棄されたM3軽戦車、迎え撃つは、各中隊から選抜されたチハタン、第一中隊で鹵獲したM3軽戦車。
最初に各車1発の57mm徹甲弾を装填し、標的に向けて500mの距離から射撃。
それは狙い過たず、砲塔に2発、車体に1発命中していたのだが、その部分の塗料がはげていただけで、徹甲弾は粉みじんになっていた。
次いで、M3の37mm徹甲弾を同じ距離500mで射撃…これは見事に貫通していた。
それでは、と、300mの射距離で徹甲弾発射。
これも木っ端微塵に徹甲弾の方が飛び散るだけだった。
そこで、射距離300mから今度は榴弾で側面を集中的に撃ってみた。
すると、M3軽戦車の側面には衝撃で装甲板に30cm平方の穴が穿たれたのである。
と言う訳で、M3軽戦車に対し、チハタンの戦法は、
「小隊(3両)で300m以内に肉薄し、1両が囮となって正面に、残りが側面に回り、近距離から
榴弾の一斉射撃を側面に対して行なう」
と言うことになった。
信じられなくはないが本当だ。
- 18 名前:ゆうか ◆9a1boPv5wk [] 投稿日:04/11/30 00:12:42 ID:uHPVawGo
- 今月の光人社NF文庫に、まさにこのエピソード出てましたねえ。
- 19 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:04/11/30 00:17:50 ID:???
- >18
今回はネタ切れでねぇ(苦藁。
- 20 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/11/30 00:54:31 ID:???
- >>19
あとガケーンの歴史群像シリーズには>17の戦法に加えて、
「行進中を待ち伏せして、前面装甲板を開けているところを狙い撃ちする」
なんてのもありました。
もうなんだかナァ・・・
- 23 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/11/30 01:11:49 ID:???
- >>17
30cm平方ってことは、装甲接合のリベットが吹き飛んではがれたのかな?
- 54 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:04/11/30 23:55:05 ID:???
- >23
装甲の溶接部が衝撃で割れたラスィ。
でもって、更に時代は下って、1945年4月の比島戦。
M4戦車には歯が立たなかった我らがチハタン。
山下奉文大将は、バギオ近郊のイリサ攻防に於て、決死戦車隊の編成と突進阻止を戦車中隊に
命じた。
この命令を受け、戦車部隊では特攻戦車隊を結成。
編成は九五式軽戦車1両と、九七式中戦車1両。
各車に1〜2名の車外員を肉攻兵として戦車に乗り、めいめい目標の戦車に対して
丸形爆雷を押しつけて戦車を破壊する任務に就いた。
また、戦車には30cm角の爆雷2基を合わせて1個にして、計20kgを戦車の前面に
設けた特設架に固定した。
攻撃の日、M4中戦車が3両、戦場に姿を現すと、山上にいた日本軍の2両は、
坂道を下って急進。
M4のうち、先頭の1両は山道を踏み外して転落し、2両はチハタンらと差し違えた。
こうして、戦車2両の犠牲と共に、方面軍司令部の首脳と兵站部隊は後退出来、
バギオ攻略戦は1週間遅滞した。
また、この戦車中隊は玉砕する際、戦車の中に火薬入りのドラム缶を2両の戦車に
積んで自爆している。
信じられなくはないが、本当だ。
- 536 名前:名無し三等兵[] 投稿日:04/12/07 04:12:31 ID:J08+mlsB
- 最近発売された、『虜人日記』(ちくま学芸文庫)を見ていたら、こんな記述が・・・
産婦人科の安田先生に例により清談を伺った。先生に診察を受けに来た夫人に
子宮が二つ膣が二つあるのがいたという。そして、右側の子宮に妊娠した時は子供が
生まれ、左に受胎した時は子宮の発育が悪い為に流産したという。これを見た看護婦が、
自分のもおかしいから診てくれというので診察するとやはり二つあったので、真中の壁を
切って穴を一つにしてやったという。あまり聞かん話だが世間には多いという。
まあ、こんな話だけ書いても仕方ないので、日本兵の強姦の話
ネグロスの高原地帯に陣地を置いた連中には、随分と無茶なことをしたのがいたという。
(中略)悪質な兵隊は憲兵のいないのを幸いに土人の女を片端から強姦していったという。
多い日には五人もやり、実に鬼畜の行為だった。(中略)黙って言う事を聞く女もいるが、
しっかりしたのは座り込んでじっとしているから変だと思ったら、大小便をして腰のあたりに
それを塗りたくっていたという。いかなる鬼畜でもこの戦術には参ったということだ。
- 20 名前:眠い人 ◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:04/12/14 23:42:21 ID:???
- 航研機にて世界記録を打ち立てた、藤田雄蔵陸軍中佐。
彼は1939年2月にイ式重爆の正しい取り扱い方を研究するため、航研機に同乗した高橋福治郎曹長と共に各務原から漢口への長距離飛行を行ったが、霧のため漢口の飛行場に辿り着けず、敵地の沙洋鎮に不時着して敵兵と交戦し、壮絶な最期を遂げた。
これは当時の国民に非常な衝撃を以て迎えられた訳であるが、彼の伝記を、羽仁説子が中公の雑誌に連載したところ、非常な評判を呼んだため、中央公論では一冊の本にまとめ、印刷して後は出版するばかりになっていた。
しかし、軍の検閲に引っかかり、その伝記はお蔵入りになってしまった。
却下理由は、藤田中佐が「熱心なクリスチャン」だったと一カ所に書いてあったため。
信じられないが本当だ。
- 29 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/12/15 01:46:28 ID:???
- >>20
私も読んでみたいなぁ。>藤田中佐の伝記
で、その著者である羽仁説子だが、夫の羽仁五郎は左翼学生の理論的指導者で
ご本人も戦後プロ市民の親玉のような人でございました。
そんなモノを書いていたのかと信じられないが、本当なんでしょうねぇ。(w
- 483 名前:眠い人
◆ikaJHtf2 [sage] 投稿日:04/12/21 22:12:37 ID:???
- 小ネタ…。
戦争末期、とある新聞が、陸軍の戦勝を報じた記事を情報局に提出した。
勿論、検閲に引っかからなかったので、情報局はその記事の掲載を許可した。
翌日、情報局の担当者が記事を見て激怒した。
それというのも、昨日新聞社が持ってきた記事と全然違う記事を掲載していたからだった。
当然、情報局の担当者は新聞社の編集長から何から呼びつけたのだが…。
実は、情報局の許可が降りた後、陸軍報道部から記事の差し換え依頼が来て、陸軍報道部
検閲済みの記事を載せたためと判明。
情報局は拳の下ろし処が無く、困っていたという。
信じられないが本当だ。
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